まつりの郷愁 7月25日

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今日は七夕まつりがありました。割と大きな規模で開催されていて、4日間続くこの街最大のイベントです。私はこの街に住んで26年になるのですが、初めて参加したのが25年前だったと思います。当時は街も活気があって、通りは人波で歩けないほどの人の数でした。それに比べると近年はかなり人出は少なくなったように思います。

さて、私はまつりというのが結構好きで、なるべく色々な催しに行きたいと思うのです。ただどんな祭りよりも思い出に残っているのは、幼い頃に近所の小さな盆踊り大会みたいな、規模が小さい縁日です。神社の参拝についてはよくわかっていませんでしたが、屋台がたくさん出て、それらを目に「どれを食べようかな?」「何を買おうかな?」と胸ときめかせていませんでしょうか?あの頃は背も小さく、人波に飲み込まれては彷徨うあてもなく、人手のない縁日の外へ放り出されて、一瞬の静寂に包まれるのです。

今日私が木にもたれてビールを飲んでいた目の前で、家族連れの浴衣を着た女の子が水風船を割ってしまって大声で泣いている姿を見ました。親御さんは苦笑いを浮かべながら、その女の子をあやしながらどこかへと歩いて行きました。「ああ、あの女の子も年を重ねるごとにつらい事、悲しい事、恨んだ事、泣きたい事、いろんな経験を糧に生きていくのだ」と考えると、自分がふと小さな存在だな、と思いました。私は51年生きてきて本気で笑った事、泣いた事、怒った事、悲しんだ事、夢中になれた事、挫折した事、誤魔化しながら自分に嘘をついてその日を取り繕っている毎日が、私自身なのだ。そう考えると、私のこれまでの道程はくだらないものだったのではないか?と塞ぎ込みそうになりそうです。

それでもここまで生きてきて、時には命を無駄にしようとした事もありましたし、その事を誰かのせいにして自分は正しかったのだと息巻いていた事もありました。それこそが傲慢という事であり、自分ひとりで生きてきたみたいなツラするなよ・・・と思うのであります。

まつりでは、知らない色んな人とすれ違います。ひとりで来ている人は私くらいのもので、大体が友達、家族、同僚。そして「恋人同士」であります。中学生同士か、高校生同士くらいの幼い恋の姿が何ともいじらしいですね。今の自分の子供よりも若い人たちが、かつての私たちの様に腕組んで歩いて行くわけです。

いいシーンだな、と思います。

こういった風景、心境こそ歌にする必要があるのではないか?と思ったのですが、今はやめておきます。今の私ではこの恋を遊ぶ、彼等・彼女等を幸せに描く自信がありません。どうせネガティブに引き裂く情景に塗りつぶしてしまうだろう。

夏祭りを歌った曲で私が知っている歌は

  • 井上陽水「夏祭り」※少年時代ではない
  • さだまさし「ほおずき」
  • 長渕剛「夏祭り」
  • ジッタリンジン「夏祭り」

くらいでしょうか。この中では井上陽水がものすごく暗くて重いですね。死にそうな雰囲気です。さだまさしは情景描写が細かいです、さすがです。長渕剛は何よりアコースティックギターのテクニックが凄まじく、歌詞の内容は淡い恋心をくすぐるものがありますね。ジッタリンジンはカバー曲が注目されたこともあって非常にリズミカルです、身近で等身大の恋心だと言えます。

なぜ夏まつりは失恋になってしまうのか?それはあまりに屋台の灯りが煌めき過ぎて、その灯りは祭りの帰り道、やがて消えてしまう予感がする。そんな気の迷いが本当になってしまった時に、あの頃の煌めきを懐かしく思い出すのです。

ちなみに明日も大きい祭りに行ってきます。キュンキュンする予感がしますね。

今回はこれで筆を置きます。最後までお読みいただきありがとうございました。

では、また

きよ

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