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変遷と言ってもそんなに大したことではないです。今日から少し「自分がやってきた音楽」の変遷を語っていこうかと思います。以前書いた話も重複するところがあると思いますが、今の記憶や考え方で書いていこうかなと思ってます。
ちゃんとしたバンドを組むのにはけっこう紆余曲折ありました。最初は勝手が全然わからなくて、どこでどうやったら練習ができるのか?という事も知りませんでした。そんな手探りの中で、私は私なりの考え方でバンドを結成しようかと思ってました。
一番初めは某シンガーソングライターとのコピーユニットを組んだことです。すごくメッセージ性が強く、聴く者を虜にする魅力的なシンガーでした。そのユニットを組もうとして、当時流行っていた「バンドやろうぜ」という音楽雑誌のバンドメンバー募集の記事を掲載してもらいました。この話は以前も書いたことがあると思います。当時は個人情報なんてまったく尊重されておらず、思いっきり住所が載っていました。電話番号はあったっけな?昔から文通相手を探す雑誌があったりして、掲載自体はそれほど悪くは考えていなかったと思います。私が掲載された自宅宛てに
不幸の手紙
が送られてきたこともありました。「27人にこの手紙を出さないと〇月〇日にあなたは死にます」みたいな文面でした。しばらくは友人にその手紙を自慢げに見せて歩いてました。
バンドやろうぜに掲載されて程なく「ヴォーカル希望」という手紙が届きました。私はそういったバンド事情には全く疎かったので、とりあえず会って話をしようと某町で会いました。ただこういう人にありがちな
ボーカルの希望なのに歌わない人
でした。当時はカラオケボックスも少なく、今みたいにカラオケボックスにアコースティックギターを持ち込んでセッションみたいなことは出来ませんでした。それでもお互いの音楽性を語ったり、それなりに打ち解けていきました。今みたいなメールやSNSなどあるわけもなく、直接会うか固定電話で話すしかなかった時代です。電話代はバカにならないので、とにかく会って話をする。これが全てでした。
何度かミーティングをして、やっと初めて音合わせをしようと当時会社の寮として使っていた部屋を貸し切ってギターとボーカルを合わせようとしました。が、そのシンガーソングライターの曲は当時の私では完全コピーすることができなくて、実のところ何にも弾けなかったのです。で、ボーカルさんも全然歌おうとはしなくて、気まずい雰囲気だけが流れていきました。
お互いにバツの悪い時間になってしまい、そのまま別れて帰りまして、その人とはもう会う事はありませんでした。
この事の何に問題があったのか?考えてみましたが、当時の私はまだ「耳コピ」の能力が未熟過ぎて、特に複雑な曲を解析する力がなかった事です。今だったらネットでコード譜を簡単に手に入れることができますが、その頃はネットどころか歌本で歌詞とコードを拾う事しかできませんでした。そしてそのシンガーソングライターの曲は持っていた歌本に載っていなかったのです。こうなるとお手上げですね。つまり演奏がなければ、それに歌を乗せるという事は不可能です。これも方法によって異なりますが、誰かがギターを弾き出して、それに他のパートが合わせ始め、リズムが出来上がったところでボーカルが歌い出す・・・という曲の作り方もあるのですが、やはり当時の私にはその力量がありませんでした。
行き当たりばったりでバンドは作ることは出来ません。ギターを弾かずにボーカルは何を歌えばいいのか?そういう根本的な事が出来ていなかった、というか認識していなかった。そんな事でこの話は流れていったのでした。
バンド活動をしようとして、しょっぱなから失敗したのですが、この時の経験は今でも生きていて、
- コピーをしっかりする事
- 前向きな姿勢で取り組む事
- どこにゴールを置くのか考える事
こういったバンドを組むにあたっての「根本的」な事柄を身をもって知りました。
今回はこれで筆を置きます。最後までお読みいただきありがとうございました。
では、また
きよ
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