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当初はボーカルギターさん、ベースさん、ドラムさん、そしてギターの私きよ。この4人で結成しました。しかし「浜省にはサックスが欲しいよね」という事で、サックスができるメンバーを募集をかけたところ、サックスとキーボードが出来るという器用な方が新たに加入されて、計5人のバンドとなりました。
5人になった時点でバンド名を付けようとなって、誰が言い出したわけでもなかったですが、メンバーそれぞれの頭文字を取って「SUTIKK(スティック)」と決まりました。ドラムのスティックを連想させることあって、なかなかカッコいい名前だなと思います。
レパートリーは当然すべて浜田省吾のナンバーなのですが、どの曲をやるのかは、だいぶ時間をかけて決めたと思います。「メインストリート」「終わりなき疾走」「夏の終わり」など、エキサイティングな曲やゆったりとした曲など、バランスよく選曲していったと思います。その中で「これはぜひ!」という曲があって
My Old 50’s Guitar
という曲でした。この曲はひたすらリードギターが弾きっぱなしという、ギタリスト的には大変ですが、見せ場のある曲です。これをコピーするのは、なかなか大変でした。ただ私がとても好きな曲でもあるので、フレーズは大体頭の中に入っていたので、あとはそれをどうやって音にするのか?どこのフレットの弩の弦を鳴らすのか?その辺をあれこれ考えて耳コピしてました。その甲斐あって、かなり原曲に近いフレーズを弾くことに成功しました。これは私にとっても、すごく自信のつく出来事でもありました。
練習は新横浜や武蔵小杉の辺りの練習スタジオを使ってました。私は横浜に住んで2年足らずで、よく土地勘がなかったのですが、楽しく練習に参加できました。その中でベースさんから「このバンドはリズムがまだ整っていない」「浜田省吾の曲はコーラスが大事」という提案があって、一度ベースさんとドラムさん、ギターの私の3人でスタジオに行ったこともありました。私はコーラス・・・つまり「ハモる」というのが苦手で、何度も何度も練習した覚えがあります。ハモりは今でも苦手ですね。ボーカロイドで曲を付く時は、メロディーに対して3度上や5度下などでハモりのフレーズを作ります。一部シャープしたり、フラットしたりという点は適宜調整できるので、とても便利です。ただ、その分自分自身のハモリの技術は失われていったかもしれません。
ある程度練習を重ねて「次はライブだ!」と意気込んでいたところに事件が起こります。なんと
私が脱退!
することになってしまいました。なぜか?それは私が当時の会社を退職することになったからです。会社からの辞令で横浜での勤務についていたのですが、当時私に「岡山」への転勤を命じられました。始めは岡山で心機一転するのもいいかな?と思っていたのですが、あるきっかけでその考えは揺らぐことになります。
知り合いが同じように横浜から岡山へ転勤していったのですが、その人からのメールで「絶対来ない方がいい!」「来たら苦労する」「僕も来なければよかった」と散々脅かされました。けっこう仲良くしていたので、そこそこ信憑性のある話だなと思いました。ただもしこの話を蹴ると、おそらくですが横浜での仕事を遥かに凌ぐ、ものすごいキツくて離職率が極めて高いと恐れられていた「お台場」への転勤を命じられる可能性があったのです。職種は全然違うのですが、四日市での苦労をほうふつとさせる、何とも恐ろしい現場だという事を知っていたのです。
辞令としてはもう出される寸前だったので、今がチャンス!とばかりに上司に退職の話をしました。そうしたら何と部長に説明しに行ってこい、と言われました。当時この部長さんはものすごく厳しくて、すぐ怒り出すという、怖い存在でした。私は思い切って髪を丸刈りにして、震えながら東京の本社に行ったのです。さすがに震えましたね。早速怒った顔の部長に会って「この度は私のわがままで・・・」と一通り伝えました。ちなみにこの転勤に関しては事前に異動願いとして「都会ではなく、地方の勤務を希望します」と書面で伝えていたのです。だから地方の岡山に転勤させてやったのに、今更なぜ辞めると言い出すのか!という理由で事情を説明に行ったのです。
すると部長は他の仕事にかかりきりでなかなか私の目を見ません。で、ふと目が合ったのですが、そこで言われたのは
まぁ、お前の人生だからよ
という短い言葉でした。どれだけ怒られるかと恐々行ったので、力が抜けました。部長はその後もずーっと忙しそうに手を止めずに電話したりしてました。「思ったより、大人な人なんだな・・・」と思ったものです。とにかく怖いのでさっさと本社を後にしました。
実はこの本社に向かう途中の電車内で、私はあるメモを書いていました。
「これが終わったらギターを買え!お疲れさん!」
自分に励ましの文を書いていたのです。私は自分が書いたその言葉になんだか感動して泣きそうになりました。その後私は本当にエレキギターを買ったのです。フェンダージャパンのストラトキャスターの中古です。このギターは横浜での最後の思い出になったと言えます。ちなみにこのストラトは今でも所有していて、今はバンドのメンバーさんに貸しているのですが、あれこれ改造してパワーアップした状態です。
そこで私が岡山に行くと決めた、そしてそれをやめて退職し、実家の名古屋へ帰郷する。という事情でバンドからは脱退するという事になりました。メンバーさんからは心良く送り出されて、記念にドラムスティックをもらいました。そこには「岡山で頑張って!」の岡山の所を横線で打ち消して「名古屋で頑張って!」と修正されていました。なかなか微笑ましいですね。
私は2000年1月をもって当時の会社を退職しました。で、そのまま実家の名古屋へと帰りました。ある日スティックのメンバーさんから「新しいギタリストが加入して、今度ライブをやるからもし都合が合えば、一緒に出演しない?」と連絡をもらいました。なかなか楽しそうなのですぐに「行きます!」と返事して、早速買ったばかりのストラトを持って、ライブをやると決めた東京の・・・どこだったかは忘れましたが、足を運びました。
私は演奏したのは結成当初にレパートリーとして名前の挙がった「夏の終わり」でした。スライドギターが特徴のバラード曲です。この時の演奏はビデオ録画されていて、何かの形で動画ファイルとして保存されています。今はどこへいったか分かりませんが、当時の若ききよさんがスライドを決めている姿を見ることができます。ちなみ新しいギターさんは私よりもはるかに技術が上で、浜田省吾のレパートリーでは定番の「MONEY」のギターソロを完コピして見せました。今でもこのMONEYのソロは私は弾けないです。でも「My Old 50’s Guitar」は弾けたので、そこは胸を張っても良いと思います。
その後の便りでどうも「スティック」は活動しなかったようです。社会人バンドなのでなかなか継続も難しかったかもしれません。自然消滅はよくあることなので、また各々が楽しくやっていけたらそれで良いと思います。短い間ではありましたが、私が初めてバンドらしいグループに参加できたことは貴重な体験でした。
今回はこれで筆を置きます。最後までお読みいただきありがとうございました。
では、また
きよ
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